|
レイヴン(RAVEN)は、イギリスのヘヴィメタル・バンド。NWOBHMのムーヴメントから登場したバンドの一つ。 基本的な音楽性はジョン・ギャラガーのロブ・ハルフォードばりのハイトーン・シャウトをフィーチャーした非常にテンションの高いハードロック若しくはパワーメタルである。スピードにもこだわりを見せ後のスラッシュメタルバンド達にも影響を与えた。しかし時期によっては音楽性に迷いが生じたり、音楽性を変えさせられたことがあり、前述のようなスタイルの音楽性とは異なる作品もある。 == 経歴 == 1975年、ジョン・ギャラガー(vo,b)とマーク・ギャラガー(g,vo)の兄弟を中心に結成。初期はドラマーが流動的で、ツイン・ギターの時期もあったが、ロブ"ワッコ(WACKO)"ハンター(ds)が加入してラインナップが固まり、ニート・レコードと契約。1981年にアルバム『ロック・アンティル・ユー・ドロップ』でデビューした。2作目『ワイプド・アウト』は1982年当時としては最も速くラウドなアルバムであったともいわれ(「速過ぎる」という批判すら一部にあった程であった)、スラッシュメタルの原点とも称された。 3作目のアルバム『オール・フォー・ワン』(1983年)では、アクセプトのウド・ダークシュナイダーが共同プロデューサーとして参加し、同時期に発表されたシングル「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」(ステッペンウルフのカヴァー)では、ウドもヴォーカルで参加。 同作に伴うツアーは、デビューアルバム『キル・エム・オール』をリリースしたばかりで当時まだ無名であったメタリカをオープニング・アクトに従えていた(そのためか、ツアータイトルは双方のアルバムタイトルから「KILL 'EM ALL FOR ONE」と命名された)。このツアーの最中に収録したライヴ版『ライヴ・アット・ジ・インフェルノ』(1984年)はバンドの評価を大きく上げることとなった。 アトランティック・レコードへの移籍第1弾アルバム『ステイ・ハード』(1985年)は、アメリカのビルボード誌にチャート・インを果たした(最高81位)。が、前作に比べポップになってしまったとファンには不評で、次作『ザ・バック・イズ・パック』(1986年)もポップ・メタル路線をさらに推し進めてしまう。特にホーンの導入は大きな批判を浴びた。 バンド側もメジャーレーベルの音楽性への干渉に相当ストレスを溜めており、レーベルの反対を押し切って発売されたミニ・アルバム『MAD』(1987年)で鬱憤を晴らすこととなる。そして同年、デビュー当時の音楽性に回帰した『ライフズ・ア・ビッチ』を発表。アトランティックを離れる。同時期にワッコが脱退。 1988年、脱退したワッコの後任としてジョー・ハッセルヴァンダー(元ペンタグラム)が加入。コンバット・レーベルに移籍し前作よりもさらにパワフルな作品『ナッシング・エクセイズ・ライク・エクセズ』を発売。その後SPVに移籍し1991年に『アーキテクト・オブ・フィア』を発表するが、数曲を除きレイヴンらしい個性が薄まった作品との評価を受け、勢いを失ってしまう。その後、ベースの盗難やジョンの家の放火被害など様々な不幸な出来事が重なり、バンド活動が停滞してしまう。そして1994年には鬱病寸前のようなネガティヴな気持ちで曲作りがなされ、極めて陰鬱で疾走感のほとんど無いまるでまったく別のバンドのような作品『グロウ』を発表してしまう。 しかし1995年に初の日本公演(オープニングアクトはスリーズ・ビーズ)が決まると、『グロウ』で見せた鬱病のような暗さとはうって変わったような元気で激しいライヴパフォーマンスを見せる。この日本公演は一回のみであったが、この様子を収録したライヴ・アルバム『デストロイ・オール・モンスターズ』を同年に発売している。そして1997年に持ち前のパワーと疾走感を取り戻した『エヴリシング・ラウダー』を出し、2000年にはかつての作品のタイトルをもじった『ワン・フォー・オール』を発表し健在ぶりを見せ付けた後、マークの骨折や契約問題などでアルバムのリリースは途絶えていた。しかし2009年3月に『ウォーク・スルー・ファイヤー』を発表し、同年6月に再来日公演も実現させている。 2015年4月、前作から約5年ぶりの通算13作目のアルバム、『エクスターミネーション』を発表。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レイヴン (バンド)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|